舞台「スタンディングオベーション」におけるジョージ二世の個人的解釈
スタンディングオベーションというよりも、誠也くんのオタクとして「ジョージ二世」を観に来たオタクの感想文。歴史が好きなオタクによる史実と比べた舞台ジョージ二世の話。考察ではなくあくまでも''解釈''です。
誠也くん演じるジョージ二世は''父親''役である。25歳のアイドルが75歳の役をやって、大御所である俳優さんがその息子を演じるチグハグさからして、きっと最初はその逆のキャスティングだったというのが面白い。
でも、ステージの上に立つジョージ二世は確かに''ジョージ二世''だった。
史実、ジョージ二世は「自ら戦場で軍を率いた最後の王」で、オーストリア継承戦争、七年戦争とフランスとの戦いなどを経てジョージ二世の治下でさらに大英帝国が大きく拡大するなど、十七世紀から続く激動の時代を生きてきた強い人。そんな強さと覚悟を背負ったジョージ二世の姿が、誠也くんの中に見えて純粋に凄く驚いたし感動した。
入った公演が後半だったのもあるかもしれないけど、ただ声がいつもより低いとかではなく、これまでいろんなことを経験してきたジョージ二世の貫禄が見える'’低さ''。シワひとつないはずの彼の顔つきが、嘘みたいだけど本当に75歳を感じて。多分、贔屓目はあるだろうし、後半の演技を目にすると前半よりも凄い気がする…と素人ながらに思った。
この舞台ジョージ二世では死神が登場する。街に出た際にアメリアが「最近夢にうなされているよう(?)」と気遣っていたのが印象的だが、死神は夢の中に現れる。死神はただ単に''死の象徴''であり、迷いや葛藤などといった''人の闇につけこんだ影''だと見ていたが、死神のダンスからして死神の存在は「メメント・モリ」に近い気がする。これに関しては''死神のダンス''というワードが「死の舞踏」を思い起こさせたからかもしれない。メサイアの3部構成にこの舞台ジョージ二世を重ねて新約聖書に乗っ取るならば、死神は、ヨハネの黙示録に登場する蒼白い馬に乗って黄泉を従えるものとも似ている気がする。死神は運命の道、そして予言など口にするが、この「運命の道」は生きるが故の迷いや苦悩と捉えることができるので、この舞台における死神は生と死の両方を背負っているとも言える。
プログラムにある通り、この舞台ではジョージ二世を''政治や人民のことに関心が薄く''と表現しているが、史実、ジョージ二世の父ジョージ一世もまた、いや、二世よりも無骨な軍人で、親愛感がなく政治的力量も乏しい人であった。ここで一つ言いたいのは、ジョージ二世は政治ごとに関心がなく、たしかに傍若無人だったのは間違いない。でも、その父ジョージ一世よりも家族思いであったのは確かだと思う。
これは余談だが、今現在のイギリス王室は、ジョージ一世に始まるハノーヴァー朝の直系で、ジョージ一世はドイツ生まれ。この時代はピューリタン革命(絶対王政からクロムウェルの共和制)→王政復古(クロムウェルの死後チャールズ二世が王となる)→名誉革命(これにより立憲君主制に)と移り変わっており、舞台ジョージ二世で登場するジャコバイトは名誉革命によって王位を失ったジェームズ二世とその男系子孫(スチュアート朝)を王位に就けようとする人たちのことである。
この舞台でも史実でも、フレデリックは父であるジョージ二世と決別し、そんなジャコバイト派と繋がりのある野党と手を組む。
プログラムではフレデリックに王位継承者としての振る舞いを求めて厳しく接していたことやフレデリックの反抗的な態度に業を煮やしていたことなどが書かれているが、史実と比べても、このプログラムに書かれていることは間違いない。
また、フレデリックは「母上(キャロライン)に毛嫌いされてるは事実だが父上にも…」というようなことを返していたが、史実でも母親キャロラインとは死ぬまで険悪な関係であった。だがそれは、フレデリックの祖父であるジョージ一世がフレデリックの渡英を許さず(イングランドとハノーヴァー朝の統一のため)、幼い頃から両親と引き離されて育ったが故のフレデリックの素行の悪さが原因だった。元々嫌っていたわけではなく、フレデリックの行いが原因でもあるのだ。
ここで繋がるのが「お前の瞳に映る太々しさ、図々しさ」というジョージ二世の台詞。キャロライン同様に史実と同じく息子フレデリックの反抗的な態度や素行の悪さに手を焼いていたジョージ二世がそこにいた。
でも、この舞台では、フレデリックを毛嫌いするジョージ二世や「絶対に許せない男がたまたま父親だった」とジョージ二世のこれまでの行いに対するフレデリックの心情が描かれているため、ジョージ二世のせいでフレデリックが野党に寝返ったような捉え方ができる。私自身、この決別のシーンでのジョージ二世は子にあまりにも厳しく、大場さん演じるフレデリックが好青年に見えたため、フレデリックに同情した。
決別して背を向けていったフレデリックに対して言った「この国で自由に暮らせたのに」という言葉が引っかかったが、これから反乱分子として国外追放するというわけでもなく、フレデリックは元々この国で暮らすことが出来なかったという史実も含んでいるのでは?と解釈している。
メサイアのシーン、このメサイアという曲は簡単に言うと、新約聖書のイエスの生涯を3部構成にして歌ったものである。あいにくこちらの知識は乏しいので、舞台観賞後に旧約聖書と新約聖書を読み込んでみたけれど、この舞台「ジョージ二世」はおそらくこのメサイアに擬えて構成された舞台だと思われる。
史実、ジョージ二世はメサイアの最中にスタンディングオベーションをしているため、この舞台でハレルヤ部分が歌われるのはもちろんわかるが、構成の観点でも、舞台中盤の一幕ラストで、メサイア第2部「ハレルヤ・コーラス」が入るというのに何かしらの意図を感じる。
これは推測だが、ハレルヤ・コーラスでスタンディングオベーションをしたジョージ二世は、曲中の「王」に自分を重ね合わせていたのかもしれない。また、ヘンデルとジョージ二世の関係性を考えても、救世主イエスに重ねてジョージ二世を讃えるよう書いていた可能性が考えられる。
ヘンデルがたびたび王やキャロラインを気遣い、舞台終盤で決別したフレデリックと親子で聞いて欲しかったとも話していたが、ヘンデルとハノーヴァー朝、ジョージ二世との交流は史実でも深いようだった。ちなみに、「ジョージ2世の戴冠式アンセム」などジョージ2世の戴冠式のためにヘンデルが作曲した戴冠式アンセムの「司祭ザドク」は歴代国王の戴冠式にも演奏されている。
そして、このスタンディングオベーションの最中にジョージ二世は息子フレデリックに刺される。これはオリジナルであるが、史実のまだ王位につかず皇太子だった頃のジョージ二世のドルーリーレーンの劇場暗殺未遂事件を引用してきているような気がした。
この舞台「ジョージ二世」は「父と子の憎しみの物語」を軸に作られており、ここでいう父と子はジョージ二世とその息子フレデリックである。あくまでも個人的な解釈だが、これはジョージ二世とその父ジョージ一世の対比でもあると思う。
2幕、ジョージ二世は父親であるジョージ一世を憎んでおり、「父親と同じようになりたくないと思っていた」という話をする。この時初めてこの舞台でジョージ一世の話がでたが、この舞台におけるジョージ一世と二世の関係性に奥行きが出たのが凄く良かった。ジョージ二世もまた子であり、ジョージ一世とジョージ二世の物語の片鱗が見えた。
史実のジョージ一世とジョージ二世、この舞台で描かれるジョージ二世とフレデリックの関係性は、鏡合わせであると思っていたが、このシーンで鏡を見るジョージ二世の演出がまさにその体現であった。
ここまで''父であるジョージ二世''を意識してみていたが、先ほども述べたように、ジョージ二世は''二世''である。一世がいたからこその二世。この場面で、ジョージ二世と同じく、二世である誠也くんがこの役を演じる意義を強く感じた。
誠也くんが何を思ってこの役を受けたのか、とても気になる。
1幕のジョージ二世に対する「民衆の声を無視する愚かな国王」「傍若無人」「酒好きで女好きで短期」「政治に関心がなく、妻キャロラインと首相ウォルポールに任せる無能な王」という評価は史実とあまり変わりはない。多分、観客の多くは一幕のジョージ二世にこのイメージを抱くと思う。ただ、2幕からは「家族想いで実は賢い」とてもあたたかい人に思える。
また、ジョージ二世は政治ごとにはあまり参加しなかったものの人間的に賢い人であったと思う。皇太子時代の自身の暗殺未遂事件時の落ち着いた行動やドイツ生まれである彼がイングランドを治めるにあたって、自分にはイングランドの血が流れている、イングランド主義の発言をするなど、ジョージ二世の行動や言動はイングランド国民の人気を博していた。
2幕冒頭、妻キャロラインの死を悲しむジョージ二世。「幸せだったか?」「気苦労ばかりかけた」という言葉で思わず泣いてしまったのだが、史実でもジョージ二世とキャロラインの夫婦仲は良好だった。
「愚かなものが上に立てば下のものは自分で考える」
ジョージ二世のこれまでの行いの答えであり、観てる人のジョージ二世への印象が変わるシーン。ここの部分の既視感はあるものの果たしてそれがジョージ二世であったのかは思い出せないので、多分違う気がする。ただ、この劇中、キャロラインがアメリアに言ったその台詞、そしてキャロラインが知るジョージ二世の姿は、「彼(ジョージ二世)といれば、わたしたちの法律と自由は安全である。彼は人民を信じ、外国政府を尊重した。その精確の安定さにより、動乱の時期にも大きな影響力を行使することができた。」というエリザベス・モンタギュー(女流文学者の)言葉と近いものを感じる。
ジョージ2世の治世は父ジョージ一世に比べて良いものではなかった。ジョージ二世は歴史において強い役割を演じなかったかもしれないが、自ら最前線に立ち軍の指揮を執り、時にはその影響力を発揮し、ジャコバイト派に屈することなく立憲君主制を擁護したのはとても大きいと個人的に思っている。
なお、当時は散々だったその評価も、今ではジョージ二世の外交政策と軍人の任命に対する影響が評価されている。
全然話は変わりますが、誠也くんのアドリブのWikipediaのアメリアのページは英語版しか存在しないけど、誠也くんは英語版読み解いた…?
突然のミュージカルの誠也くんの歌にびっくりして大事なところで歌詞を聞きそびれたが、「守りたいものを護る」という詞は、1幕の外から見たジョージ二世ではなく、ジョージ二世の内側、温かいところを表していてとても嬉しく感じた。1幕と2幕のそのジョージ二世の対比がとても面白い。
そして「フレディはどこだ」と探すジョージ二世。護衛もつけず王自ら戦うその姿はまさに軍人であった。軍人ジョージ二世が愛を背負って戦う姿。舞台中盤で、ジョージ二世を気遣うアメリアに「理屈ではなく力で」などと返すシーンがあったが、ここでもまた、軍人ジョージ二世を感じた。
また、もともとウォルポールと折り合いが悪かったジョージ二世。妻キャロライン亡き後にウォルポールが離れていくのは史実同様必然かと思われる。
ラスト、病に伏せたフレデリックの自害のシーン。史実ではフレデリックが病に伏せる最後まで和解することのなかったジョージ二世とフレデリック。だが、この舞台のジョージ二世は、フレデリックを許す。''教会"でのこのシーンは、罪を背負うフレデリックと全てを許すジョージ二世の対比をより濃くしていた。
史実、ジョージ二世はフレデリックの死後、「私は私の子供たちが若いころに彼らを愛さず、彼らが私の部屋へ走ってくることを嫌った。しかし、今はほとんどの父親と同じように彼らを愛している」と哀悼し、未亡人となったフレデリックの妻を不憫に思い、ともにフレデリックの死を悲しんだと言われている。
ここで見えるのはフレデリックが死ぬまで続いた不仲に対するジョージ二世の後悔であるが、この舞台では、そんな2人が和解後にフレデリックの死を迎える。これは史実では叶うことのなかった2人の最後である。
本来ならジョージ二世の説得も虚しくここでフレデリックが自害するが、この日のジョージ二世は違った。ジョージ二世ではなく、鳴島誠也そのものだった。この時のアドリブは観客にいた犯人に向けてのものであったと解釈しているが、それだけではなく、多分、多くの人を救っていたと思う。
父ジョージ二世ではなく、子ジョージ二世/鳴島誠也として立つその姿に、ジョージ''二世''を演じる''鳴島誠也''の意義をまた感じた。ここのジョージ二世を通した''鳴島誠也''のアドリブシーンについてはまた改めて。
ジョージ二世は死神が登場した後に''死''について「人はいつかは死ぬ」「問題はどう死ぬか(もしくは生きるかだったかは忘れた)」と口にしている。死神の登場は「メメント・モリ」(死を忘れるなかれ)だと思っているが、ラストの誠也くん演じるジョージ二世、いや誠也くんはその対義語であり同義語である「カルペディエム」も背負っていたと思う。このメメント・モリという言葉には''死を忘れるなかれ、だから今この瞬間を大切に''という意味もある。そしてカルペディエムには、''いつかは必ず死が訪れる。だから今この瞬間を全力で生きろ''という意味がある。
生を持って死を捉えるか、死を持って生を捉えるかの違いだと私は解釈しているが、どちらにせよ本質的には同じだと思う。
メメント・モリの''死を忘れるなかれ''、そしてカルペ・ディエムの今こその瞬間にしかないそれを、今日という日を大切に、悔いのない人生を、生きるのだと。最後の「Show Must Go On」(死を迎えるその時まで幕を下ろしてはならない)はまさに背中合わせで向かい合わせのその2つの言葉を合わせていた。
最後に、この舞台「ジョージ二世」は史実の''ジョージ二世''を救っている。そして、そんな舞台でも救いきれなかったラストを、ジョージ二世を演じる誠也くんが救っている。
スタンディングオベーションをすべきメサイア(救世主)はイエスでもジョージ二世でもなく、きっと鳴島誠也なのだと思う。
🐭🧀 感想
原作との解釈違いや変に期待して先入観で観たくないなって思ったからまだ原作を見ていないので、あくまでも原作未読の実写''窮鼠はチーズの夢を見る''の感想
なんとなく二年付き合ったから結婚とか''なんとなく''で流されて生きてきた恭一は多分今までちゃんと好きになったことはないんだなって。奥さんが別れを切り出したのもわかるくらいどこか関心がないというか。
世間一般で考えるとゆるくて節操の無い''クズ''というカテゴリーなのかもしれないけど、純粋に夢中になれることがないんだなと。一見相手のためを思った完璧で優しい男に見えるけど、それは全て自分を守るためでしかなくて、それが結局相手を傷つけてる。
「全員が全員見た目が良くて完璧で自分を満たしてくれる人を探してるわけじゃない(ニュアンス)」っていった今ヶ瀬の言葉は恭一にどこまで刺さったかわからないけど、恭一のダメなところも全て受け入れて、ずっと愛してくれてる今ヶ瀬の存在はとても大きかったのではないかと。
今ヶ瀬の前ではフラットに、そしてありのままいれるからこそ同居を許してしまうというか。でもそのことに恭一自身気づいていない。
きっと、なつきに「どっちをとるの?」と言われた時に即答できなかったのも、なつきと結局できなかったのも、今ヶ瀬への何かが芽生えていたはずなんだけど、本当に恭一は気づいていない。
ずっと「無自覚」
だからこそ今ヶ瀬は苦しいし、あまりにも残酷なんだよなと。無自覚だからこそ自分本意で振り回す。
徐々に恭一が自分の気持ちを理解してきた中盤の「バカだなぇ お前は」が大好き。こんな自分をいつまでも愛してくれる今ヶ瀬への紛れもない本心。
原作の方はわからないけど、この恭一はちゃんと、ちゃんと今ヶ瀬のこと好きなんですよ。たまきに「忘れるわけがない」と言ったように、きっといつまでも心にあり続けるし、流されて何かに執着してこなかった恭一が初めてみせた執着で初めての失恋なのだと思う。
今ヶ瀬に「あなたじゃない」と言われ頬を叩かれたあの時の恭一の死んだ目は、これまで女に向けてきた感情のない、興味のない目ではなく、明らかに傷ついた目だった。
あの時恭一は確かに失恋をしていたと思う。
ちかこと別れて一人暮らしをしているとき、それなりにダメージはあるかもしれないけど、ハッテン場で泣きながら口から酒を溢して、そして声を上げながら街を歩く、そんな痛々しい恭一ではなかったと思う。
「お前を選ぶわけにはいかない 普通の男には無理だ」
なつきと今ヶ瀬と3人で飲んでるシーンの恭一の言葉。
海のシーンの「心底惚れるって、全てにおいてその人だけが例外になる(ニュアンス)」っていう今ヶ瀬くんの話、まさに恭一に当てはまると思っていて。
その時の恭一はどこまで自覚してるかわからないけど。
別の時間に観にいった友人から「最後がどうしてそうなるのかよくわからなかった」と言われたけど、おそらくずっと愛していた恭一に彼女との結婚を破棄してまでも「一緒に暮らそう」と言われたのに姿を消した今ヶ瀬くんの気持ちがわからなかったのかなと。
わたしは物語を今ヶ瀬寄りで感情移入してみていたから、なんとなくこんな気持ちなのかなと汲み取って見ていたんですよね。
好きで好きでたまらない、だからこそ相手の幸せを心から願っているし、彼女との結婚を破棄させてまで恭一と暮らすという現実から今ヶ瀬は逃げたのかなと。
なつきに「(恭一には)逃げ道を作ってあげないと」と言っていた自分がその逃げ道を塞いでしまってる現実に彼は苦しんでいた。
もともとノンケの恭一との「世界が違う」こと、恭一がいつかまた女のところに行ってしまうのではという恐怖、男である自分とずっと一緒にいることで潰してしまうかもしれない彼の未来。今ヶ瀬くんはほんとにいろんなものが苦しくて苦しくて仕方がなかったのではないかと。
時々恭一を揺さぶるように「女が恋しいでしょ(ニュアンス)」という今ヶ瀬は、ずっとそんな不安を抱えていて、恭一にそれを否定して欲しい反面どこかバッサリ自分を捨てて欲しい、こんな苦しいならいっそのことここで切って欲しいという思いがあるように見えて。
ファンデーションのついた喪服を見て声を上げた彼の「あなたじゃない あなたにも俺じゃない」という言葉が痛くて苦しくて本当に切ない。恭一に女の影がみえたことで自分の身を引く今ヶ瀬と、その言葉を間に受けて「終わりにしよう」という恭一。
あの時の今ヶ瀬の気持ちは上手く言葉にできないほどたくさんの物を抱えていて。本当に苦しくて苦しくて涙が止まらなかった。
その後も結局会ってしまう2人。
「お前はいらない」と言われてもまた会ってしまうのは、今ヶ瀬がまたつけていたからなのか恭一が連絡したからなのかわからないけど、今ヶ瀬は彼の''逃げ道''になることが1番気楽なのかもしれないと思った。
「彼女と別れてください」も「これまで通り器用に生きればいい(たまきと結婚して今ヶ瀬と会う)」も本心。でもそこで恭一は今ヶ瀬を選んだ。そして今ヶ瀬はその現実から逃げたではないかと思った。
後半、無自覚なのかはわからないけど恭一は本当に今ヶ瀬のことが好きなのだと思う。そしてこれまで通りきっと今ヶ瀬はいつか帰ってくると信じている。
劇中よく今ヶ瀬が座っていたあの椅子。あれにたまきが座った時、恭一はすぐたまきのことを読んで座らせなかったところに愛を感じた。今ヶ瀬のところには絶対に座らせない。
そしてラストの今ヶ瀬がよく座っていた高い椅子に座ってチーズのような黄色い灰皿入れを眺めている様子は、まるでチーズという餌でおびき寄せた鼠を捕まえようとしているようにみえた。
一方の今ヶ瀬は、恭一から離れて違う男に抱かれたけれどやっぱり恭一のことが忘れられないしほんとにいろんな葛藤を抱えて苦しんでいて、恭一じゃない男の手を振り払って声を上げて泣いた姿が本当に切なかった。
すれ違う2人、今ヶ瀬の気持ちを思うと本当に心が苦しくて痛くて切ないラストだけれど、''悲しい''かと言われたらそうじゃなくて。
きっとこの続きがあるなら今ヶ瀬はまた戻ってくると思うんですよね。
でも長くは続かなくて、また今ヶ瀬が離れてしまうんだろうなと。それでもまた恭一は彼を待つし、今ヶ瀬も戻ってくる。きっと彼らはこれからもいろんな葛藤を抱えながら一緒になって、また離れてを繰り返していくんだろうなと。
そしてそれも長くは続かなくて、きっといつか今ヶ瀬は本当に姿を消すのだと思う。
いつかはくる終わりとほんの一瞬の幸せと。相手を思う''理屈じゃない愛''が重く苦しく残酷で、そして愛おしいそんな映画。
ジャニーズ歴代デビュー曲とJAPONICA STYLEについて考えてみた
先日、身内のオタクと通話していた時「近年のジャニーズのデビュー曲、夢っていう単語入ってない?」という話になり、詳しく調べているうちにある仮説にたどり着いた。
「ジャニーズのデビュー曲、恋、愛、夢の3文字のいずれかが必ず入っている説」
ということで主なジャニーズの歴代デビュー曲ごとに恋・愛・夢の出現回数をまとめてみたよ〜!!

(単純に歌詞の中に恋、愛、夢の3文字がいくつ入っているのか計測したから間違ってるかもしれない)
出現回数順
- 夢(28回)
- 愛 (22回)
- 恋 (15回)
出現曲数順
- 夢(13曲)
1. 愛 (13曲)
3. 恋 (6曲)
マッチさんのスニーカーぶる〜す以外''恋'' ''愛'' ''夢''の3文字が入ってない…?
そしてやっぱり夢という文字が多い……
歌詞分析というよりも今回は単純な統計の為、曲ごとにそれぞれ単語の持つ意味は変わってくるけれど、
夢というワードが一番多い事実…めちゃくちゃエモくない??(語彙力皆無)
アイドル=夢を見せてくれる存在、すなわち偶像だと思って生きているオタクだから、あまりにも解釈の一致すぎる…
ファンが見ている夢、アイドル本人達が抱いている夢、いろんな夢を背負ってデビューするジャニーズ。なんて素敵なんだろう!!!!!!
哲学的な話にもなってしまうけど、恋や愛という単語が入っているのもジャニーズらしい気がする…
愛(あい)とは大切にすること。かわいがること。めでること。そのものの価値を認め、強く惹きつけられる気持ち。
恋(こい)とは、特定の相手のことを好きだと感じ、大切に思ったりする感情。
(Wikipedia参照)
少年ジャ◯プの三大原則が「友情・努力・勝利」なら、ジャニーズの三大原則って「夢・恋・愛」じゃない????(愛と平和もマスト)
さて、前置きはこのくらいにしてそろそろ本題にいきたいと思う。
タイトルからもうお気づきの人もいるかもしれないが、''恋・愛・夢''…この3文字が入る曲をわたしはよく知っている………
これを読んでくれている方の頭の中にもあのイントロが頭の中に流れてきているはず………
〜〜〜♪
JAPONICA! いま In my heart
JAPONICA! いま In your heart
Ah…
Yeah, yeah
愛が足りないのに そっと微笑んで
JAPONICA STYLE 華麗に舞う花
何が起こるかは わからないなんてさ
夢 恋 桜 JAPONICA STYLE
そう、
JAPONICA STYLEが。
ということで、ジャニーズ歴代デビュー曲頻出語句の統計からJAPONICA STYLEの魅力を考えてみようと思う!!!!まずはこれを見てほしい………
JAPONICA STYLE 出現回数
- 夢(5回)
- 恋(4回)
- 愛(1回)
しっかり''恋'' ''愛'' ''夢''の3文字が入っているうえに、夢が1番多いじゃん……
(映画少年たちのあのダサい()フォントを思い出した方、仲間です)
この3文字が入っている唯一のデビュー曲は光GENJIのSTAR LIGHTだけど、そのSTAR LIGHTを上回る出現回数…
JAPONICA STYLEの良さは、その歌詞と、サビのキャッチーさにあると思っていたけれど、それだけじゃないのかもしれない…(歌詞分析・解釈については、検索すると素敵なものがたくさん出てくると思うので、ぜひそちらをご覧ください)
もしかしたら気づかないうちに刷り込まれてきた、この''愛'' ''夢'' ''恋''という3文字が関係している……?
きっとJAPONICA STYLEには「ジャニオタが潜在的に惹かれる何か」があるのかもしれない………
「ジャニーズのデビュー曲、恋、愛、夢の3文字のいずれかが必ず入っている説」が続いているのならば、JAPONICA STYLEってめちゃくちゃデビュー曲にぴったりじゃない…??デビュー前にもかかわらず、すでに世間に代名詞ともいえるような曲が広まってるの凄くない??
ジャニーズのデビュー曲はバブル全盛期にデビューし「夢はFREEDOM FREEDOM 」と歌う光GENJIのSTAR LIGHT、バブル崩壊後に「素敵な夢を見させておくれ」と歌ったSMAP、ノストラダムス大予言が流行った1999年に「まだまだ世界は終わらない」と歌った嵐というように、時代背景も反映されていると思う。
テレビジョンのインタビューで、「異質」「ジャニーズデビュー曲メドレーに混ざりづらい」などという言葉も出ているが、令和になった今、ジャニーズをデジタルに放つ新世代と呼ばれる彼らがどんな曲でデビューするのか、とても楽しみだな………
※作曲者様発表前に書いたもの