夢かうつつか

夢ならどうか醒めないで。

舞台「スタンディングオベーション」におけるジョージ二世の個人的解釈

スタンディングオベーションというよりも、誠也くんのオタクとして「ジョージ二世」を観に来たオタクの感想文。歴史が好きなオタクによる史実と比べた舞台ジョージ二世の話。考察ではなくあくまでも''解釈''です。

 

 

誠也くん演じるジョージ二世は''父親''役である。25歳のアイドルが75歳の役をやって、大御所である俳優さんがその息子を演じるチグハグさからして、きっと最初はその逆のキャスティングだったというのが面白い。

でも、ステージの上に立つジョージ二世は確かに''ジョージ二世''だった。
史実、ジョージ二世は「自ら戦場で軍を率いた最後の王」で、オーストリア継承戦争七年戦争とフランスとの戦いなどを経てジョージ二世の治下でさらに大英帝国が大きく拡大するなど、十七世紀から続く激動の時代を生きてきた強い人。そんな強さと覚悟を背負ったジョージ二世の姿が、誠也くんの中に見えて純粋に凄く驚いたし感動した。

入った公演が後半だったのもあるかもしれないけど、ただ声がいつもより低いとかではなく、これまでいろんなことを経験してきたジョージ二世の貫禄が見える'’低さ''。シワひとつないはずの彼の顔つきが、嘘みたいだけど本当に75歳を感じて。多分、贔屓目はあるだろうし、後半の演技を目にすると前半よりも凄い気がする…と素人ながらに思った。


この舞台ジョージ二世では死神が登場する。街に出た際にアメリアが「最近夢にうなされているよう(?)」と気遣っていたのが印象的だが、死神は夢の中に現れる。死神はただ単に''死の象徴''であり、迷いや葛藤などといった''人の闇につけこんだ影''だと見ていたが、死神のダンスからして死神の存在は「メメント・モリ」に近い気がする。これに関しては''死神のダンス''というワードが「死の舞踏」を思い起こさせたからかもしれない。メサイアの3部構成にこの舞台ジョージ二世を重ねて新約聖書に乗っ取るならば、死神は、ヨハネの黙示録に登場する蒼白い馬に乗って黄泉を従えるものとも似ている気がする。死神は運命の道、そして予言など口にするが、この「運命の道」は生きるが故の迷いや苦悩と捉えることができるので、この舞台における死神は生と死の両方を背負っているとも言える。


プログラムにある通り、この舞台ではジョージ二世を''政治や人民のことに関心が薄く''と表現しているが、史実、ジョージ二世の父ジョージ一世もまた、いや、二世よりも無骨な軍人で、親愛感がなく政治的力量も乏しい人であった。ここで一つ言いたいのは、ジョージ二世は政治ごとに関心がなく、たしかに傍若無人だったのは間違いない。でも、その父ジョージ一世よりも家族思いであったのは確かだと思う。


これは余談だが、今現在のイギリス王室は、ジョージ一世に始まるハノーヴァー朝の直系で、ジョージ一世はドイツ生まれ。この時代はピューリタン革命(絶対王政からクロムウェルの共和制)→王政復古(クロムウェルの死後チャールズ二世が王となる)→名誉革命(これにより立憲君主制に)と移り変わっており、舞台ジョージ二世で登場するジャコバイトは名誉革命によって王位を失ったジェームズ二世とその男系子孫(スチュアート朝)を王位に就けようとする人たちのことである。

この舞台でも史実でも、フレデリックは父であるジョージ二世と決別し、そんなジャコバイト派と繋がりのある野党と手を組む。


プログラムではフレデリックに王位継承者としての振る舞いを求めて厳しく接していたことやフレデリックの反抗的な態度に業を煮やしていたことなどが書かれているが、史実と比べても、このプログラムに書かれていることは間違いない。

また、フレデリックは「母上(キャロライン)に毛嫌いされてるは事実だが父上にも…」というようなことを返していたが、史実でも母親キャロラインとは死ぬまで険悪な関係であった。だがそれは、フレデリックの祖父であるジョージ一世がフレデリックの渡英を許さず(イングランドハノーヴァー朝の統一のため)、幼い頃から両親と引き離されて育ったが故のフレデリックの素行の悪さが原因だった。元々嫌っていたわけではなく、フレデリックの行いが原因でもあるのだ。

ここで繋がるのが「お前の瞳に映る太々しさ、図々しさ」というジョージ二世の台詞。キャロライン同様に史実と同じく息子フレデリックの反抗的な態度や素行の悪さに手を焼いていたジョージ二世がそこにいた。


でも、この舞台では、フレデリックを毛嫌いするジョージ二世や「絶対に許せない男がたまたま父親だった」とジョージ二世のこれまでの行いに対するフレデリックの心情が描かれているため、ジョージ二世のせいでフレデリックが野党に寝返ったような捉え方ができる。私自身、この決別のシーンでのジョージ二世は子にあまりにも厳しく、大場さん演じるフレデリックが好青年に見えたため、フレデリックに同情した。 


決別して背を向けていったフレデリックに対して言った「この国で自由に暮らせたのに」という言葉が引っかかったが、これから反乱分子として国外追放するというわけでもなく、フレデリックは元々この国で暮らすことが出来なかったという史実も含んでいるのでは?と解釈している。


メサイアのシーン、このメサイアという曲は簡単に言うと、新約聖書のイエスの生涯を3部構成にして歌ったものである。あいにくこちらの知識は乏しいので、舞台観賞後に旧約聖書新約聖書を読み込んでみたけれど、この舞台「ジョージ二世」はおそらくこのメサイアに擬えて構成された舞台だと思われる。

史実、ジョージ二世はメサイアの最中にスタンディングオベーションをしているため、この舞台でハレルヤ部分が歌われるのはもちろんわかるが、構成の観点でも、舞台中盤の一幕ラストで、メサイア第2部「ハレルヤ・コーラス」が入るというのに何かしらの意図を感じる。

これは推測だが、ハレルヤ・コーラススタンディングオベーションをしたジョージ二世は、曲中の「王」に自分を重ね合わせていたのかもしれない。また、ヘンデルとジョージ二世の関係性を考えても、救世主イエスに重ねてジョージ二世を讃えるよう書いていた可能性が考えられる。

ヘンデルがたびたび王やキャロラインを気遣い、舞台終盤で決別したフレデリックと親子で聞いて欲しかったとも話していたが、ヘンデルハノーヴァー朝、ジョージ二世との交流は史実でも深いようだった。ちなみに、「ジョージ2世の戴冠式アンセム」などジョージ2世の戴冠式のためにヘンデルが作曲した戴冠式アンセムの「司祭ザドク」は歴代国王の戴冠式にも演奏されている。


そして、このスタンディングオベーションの最中にジョージ二世は息子フレデリックに刺される。これはオリジナルであるが、史実のまだ王位につかず皇太子だった頃のジョージ二世のドルーリーレーンの劇場暗殺未遂事件を引用してきているような気がした。


この舞台「ジョージ二世」は「父と子の憎しみの物語」を軸に作られており、ここでいう父と子はジョージ二世とその息子フレデリックである。あくまでも個人的な解釈だが、これはジョージ二世とその父ジョージ一世の対比でもあると思う。

2幕、ジョージ二世は父親であるジョージ一世を憎んでおり、「父親と同じようになりたくないと思っていた」という話をする。この時初めてこの舞台でジョージ一世の話がでたが、この舞台におけるジョージ一世と二世の関係性に奥行きが出たのが凄く良かった。ジョージ二世もまた子であり、ジョージ一世とジョージ二世の物語の片鱗が見えた。

史実のジョージ一世とジョージ二世、この舞台で描かれるジョージ二世とフレデリックの関係性は、鏡合わせであると思っていたが、このシーンで鏡を見るジョージ二世の演出がまさにその体現であった。
 

ここまで''父であるジョージ二世''を意識してみていたが、先ほども述べたように、ジョージ二世は''二世''である。一世がいたからこその二世。この場面で、ジョージ二世と同じく、二世である誠也くんがこの役を演じる意義を強く感じた。

誠也くんが何を思ってこの役を受けたのか、とても気になる。

 

1幕のジョージ二世に対する「民衆の声を無視する愚かな国王」「傍若無人」「酒好きで女好きで短期」「政治に関心がなく、妻キャロラインと首相ウォルポールに任せる無能な王」という評価は史実とあまり変わりはない。多分、観客の多くは一幕のジョージ二世にこのイメージを抱くと思う。ただ、2幕からは「家族想いで実は賢い」とてもあたたかい人に思える。
また、ジョージ二世は政治ごとにはあまり参加しなかったものの人間的に賢い人であったと思う。皇太子時代の自身の暗殺未遂事件時の落ち着いた行動やドイツ生まれである彼がイングランドを治めるにあたって、自分にはイングランドの血が流れている、イングランド主義の発言をするなど、ジョージ二世の行動や言動はイングランド国民の人気を博していた。


2幕冒頭、妻キャロラインの死を悲しむジョージ二世。「幸せだったか?」「気苦労ばかりかけた」という言葉で思わず泣いてしまったのだが、史実でもジョージ二世とキャロラインの夫婦仲は良好だった。

「愚かなものが上に立てば下のものは自分で考える」

ジョージ二世のこれまでの行いの答えであり、観てる人のジョージ二世への印象が変わるシーン。ここの部分の既視感はあるものの果たしてそれがジョージ二世であったのかは思い出せないので、多分違う気がする。ただ、この劇中、キャロラインがアメリアに言ったその台詞、そしてキャロラインが知るジョージ二世の姿は、「彼(ジョージ二世)といれば、わたしたちの法律と自由は安全である。彼は人民を信じ、外国政府を尊重した。その精確の安定さにより、動乱の時期にも大きな影響力を行使することができた。」というエリザベス・モンタギュー(女流文学者の)言葉と近いものを感じる。

ジョージ2世の治世は父ジョージ一世に比べて良いものではなかった。ジョージ二世は歴史において強い役割を演じなかったかもしれないが、自ら最前線に立ち軍の指揮を執り、時にはその影響力を発揮し、ジャコバイト派に屈することなく立憲君主制を擁護したのはとても大きいと個人的に思っている。
なお、当時は散々だったその評価も、今ではジョージ二世の外交政策と軍人の任命に対する影響が評価されている。


全然話は変わりますが、誠也くんのアドリブのWikipediaアメリアのページは英語版しか存在しないけど、誠也くんは英語版読み解いた…?


突然のミュージカルの誠也くんの歌にびっくりして大事なところで歌詞を聞きそびれたが、「守りたいものを護る」という詞は、1幕の外から見たジョージ二世ではなく、ジョージ二世の内側、温かいところを表していてとても嬉しく感じた。1幕と2幕のそのジョージ二世の対比がとても面白い。


そして「フレディはどこだ」と探すジョージ二世。護衛もつけず王自ら戦うその姿はまさに軍人であった。軍人ジョージ二世が愛を背負って戦う姿。舞台中盤で、ジョージ二世を気遣うアメリアに「理屈ではなく力で」などと返すシーンがあったが、ここでもまた、軍人ジョージ二世を感じた。

また、もともとウォルポールと折り合いが悪かったジョージ二世。妻キャロライン亡き後にウォルポールが離れていくのは史実同様必然かと思われる。


ラスト、病に伏せたフレデリックの自害のシーン。史実ではフレデリックが病に伏せる最後まで和解することのなかったジョージ二世とフレデリック。だが、この舞台のジョージ二世は、フレデリックを許す。''教会"でのこのシーンは、罪を背負うフレデリックと全てを許すジョージ二世の対比をより濃くしていた。

ちなみにアマリリス花言葉は「誇り」である。

史実、ジョージ二世はフレデリックの死後、「私は私の子供たちが若いころに彼らを愛さず、彼らが私の部屋へ走ってくることを嫌った。しかし、今はほとんどの父親と同じように彼らを愛している」と哀悼し、未亡人となったフレデリックの妻を不憫に思い、ともにフレデリックの死を悲しんだと言われている。

ここで見えるのはフレデリックが死ぬまで続いた不仲に対するジョージ二世の後悔であるが、この舞台では、そんな2人が和解後にフレデリックの死を迎える。これは史実では叶うことのなかった2人の最後である。

本来ならジョージ二世の説得も虚しくここでフレデリックが自害するが、この日のジョージ二世は違った。ジョージ二世ではなく、鳴島誠也そのものだった。この時のアドリブは観客にいた犯人に向けてのものであったと解釈しているが、それだけではなく、多分、多くの人を救っていたと思う。
父ジョージ二世ではなく、子ジョージ二世/鳴島誠也として立つその姿に、ジョージ''二世''を演じる''鳴島誠也''の意義をまた感じた。ここのジョージ二世を通した''鳴島誠也''のアドリブシーンについてはまた改めて。


ジョージ二世は死神が登場した後に''死''について「人はいつかは死ぬ」「問題はどう死ぬか(もしくは生きるかだったかは忘れた)」と口にしている。死神の登場は「メメント・モリ」(死を忘れるなかれ)だと思っているが、ラストの誠也くん演じるジョージ二世、いや誠也くんはその対義語であり同義語である「カルペディエム」も背負っていたと思う。このメメント・モリという言葉には''死を忘れるなかれ、だから今この瞬間を大切に''という意味もある。そしてカルペディエムには、''いつかは必ず死が訪れる。だから今この瞬間を全力で生きろ''という意味がある。

生を持って死を捉えるか、死を持って生を捉えるかの違いだと私は解釈しているが、どちらにせよ本質的には同じだと思う。

メメント・モリの''死を忘れるなかれ''、そしてカルペ・ディエムの今こその瞬間にしかないそれを、今日という日を大切に、悔いのない人生を、生きるのだと。最後の「Show Must Go On」(死を迎えるその時まで幕を下ろしてはならない)はまさに背中合わせで向かい合わせのその2つの言葉を合わせていた。


最後に、この舞台「ジョージ二世」は史実の''ジョージ二世''を救っている。そして、そんな舞台でも救いきれなかったラストを、ジョージ二世を演じる誠也くんが救っている。


スタンディングオベーションをすべきメサイア(救世主)はイエスでもジョージ二世でもなく、きっと鳴島誠也なのだと思う。